如月志津佳   
大事にしていたおもちゃが壊れた時、ものすごく悲しかった。
もう二度と動かないのだと言われ、柄にもなくわんわんと泣いた。
形あるものはいつか壊れるのだと、自然と学習したある日。

大事な人が、いなくなった。


<<motor>>


「こりゃあ厳しいな〜。修理代の方が、高くつくぞ」
「マジで? 何とかなんねぇ?」
「新しく買った方が、金もかかんねぇって」

目の前の愛車は、姿だけはピンピンしている。傷もへこみを、ほとんど見当たらない。
なのに、エンジンが掛からない。
無茶な改造はしていない。
ショップのオヤジが言うには、一部のパーツの相性が悪いと接触不良を起こすらしい。

「直して事故るより、思い切って買い換えろ」
「理屈は分かるけど……」

俺にとって、二代目のバイク。
愛着もある。
このまま廃車にはしたくない。
ショップからの帰り道。
ポケットに手を突っ込み、心許なく感じながら、どうにか手立てがないか……俺はそればかり、考えていた。

***

「……羽倉?」

呼ばれていた事にはっと気付く。

「悪ぃ。何だ?」
「べっつにーー」

だったら呼ぶなと思うが、一宮相手に言ったところで通じるはずがない。
御堂家のリビング。
帰宅した俺は、ぼんやりとテレビを見ていた。
続きのダイニングでは、むぎが忙しそうにキッチンと行き来をしている。
いつもなら、それを夢見心地で眺めているのに……今日の俺は、一宮が邪魔をしに来た事さえ、気付かなかった。

「あ、依織くん。お帰りなさい」
「ただいま。いい匂いだね」
「松川さん、お帰りー」
「お帰り」
「ただいま……麻生? いたのかい?」

そんな驚く事か?
以前は一緒に食事なんて考えられなかった俺達だけど、最近は、揃わない事の方が珍しい。

「いちゃ、悪ぃかよ」
「いや。ガレージにバイクがなかったから、てっきりいないものだと、思っていた」
「そう言えば、帰って来た時、静かだったね。どうしたの?」

食器を並べる手を休めて、むぎが聞いて来る。
洗い過ぎて色褪せた割烹着でも、やっぱりむぎのトレードマークはこれしかないと思う。

「出先で急に動かなくなってさ。メンテナンス中」
「それは……難儀だったね」
「じゃあしばらくは、あのエンジン音、聞かなくて済むんだ〜。ラッキー★」

いつもの俺なら、一宮のこの言葉に食って掛かっていただろう。
でも、今の俺には言い返す気力もなかった。

***

夕飯も終わり、それぞれが好きに過ごす時間。
俺は自分のベッドに寝転がっていた。
好きなバイク雑誌も、今日は手に取る事さえ億劫だ。
あのバイクが快調な時は、次に買うならどんなタイプにしようかと、わくわくしていたのに……
いざ走らないとなると、次を探す気力なんて、何処かに行ってしまった。
それだけ、あのバイクは馴染みがある。
これから乗るどんなバイクよりも、思い入れがある。
そう感じるには、勿論理由がある。
それは……。

俺の思考を打ち破るように、無機質な部屋にノックが響く。
控え目なその音の発生源は、一人しかいない。

「入れよ」

仰向けに寝そべったままそう言うと、スチール製のドアが軋んだ音を立てた。
軽い足音が、ベッドサイドまで近付いて来る。

「洗濯物、持って来たよ」
「ああ……サンキュ」

天井を眺めていた俺の視界に、むぎが重なって来る。

「今、少しいい?」
「仕事は?」
「麻生くんで最後」

綺麗に畳まれた洗濯物を掲げて見せる。
トレードマークの割烹着を既に脱いでいるって事は、そのまま俺と話をするつもりだったんだろう。
枕元に洗濯物が置かれると、俺の右側がむぎの体重分だけ傾いだ。

「元気出して……」

夕飯の間も、俺はほとんど喋らなかった。
心配してくれているのだと分かり、情けない気持ちと嬉しい気持ちで満たされる。
細い腰に腕を回して引き寄せると、簡単に倒れ込んで来た。

「んもぅ……ちょっと待って」

折角畳んだ洗濯物が皺になると、ぶつぶつ言いながら邪魔にならない壁際へ移動させる。
鼻先を掠める、柔らかな髪。

「さ、どうぞ」

俺の方にきちんと向いて、聞く体勢は整えたと主張するむぎ。
耐え切れなくて、軽いキスを落とす。

「あのバイク、そんなに気に入ってるの?」
「うん……何かもう、俺の一部みたいな気がする……」
「そんなに長く乗ってたの?」
「そうでもねぇよ、二代目だし。でも……」

時間よりも、もっともっと重みのある存在が、あのバイクには染み付いている。

「初めて、お前を乗せたバイクだからさ……」

途端に目の前の顔が、薄紅色に染まる。
ああ、もう……見てられねぇ。
照れ隠しに、俺はむぎから視線を外し、再び天井と対峙する。
それでも、脇に触れるむぎの体温に、心臓が高鳴る。

「でも、分かるな……」
「え?」

顔だけ捻ると、むぎも照れたように微笑んでいた。

「あたしもさ、あの割烹着、いいかげんくたびれて、汚れも目立つようになって来たけど……取り替えられないんだよね」
「むぎ……?」
「一哉くんが見兼ねて新しいのくれたんだけど……やっぱり、前のを着ちゃうんだ。何でだろうね?」

そうやって、捨てられない思いが誰にでもあるのだろう。
他人はくだらないと一蹴してしまうような、些細な出来事も、礎となるのかもしれない。
タイヤが跳ね飛ばした石ころも、転がった先で思いもよらぬ発端になるかもしれない。

「そんなに大事ならさ、ハンドルとかだけでも、取っておけない?」
「それも考えたんだけど、やっぱり全体を残しておきたくてさ……そうなると、置き場所がなぁ……」

さすがに動かないバイクを、この家のガレージに置くのは気が引ける。
かと言って、実家に置くのはもっと抵抗がある。
写真で我慢するしかないと諦めていた時、すぐ傍から啓示があった。

「じゃあ……うちのガレージに置けば?」
「え?」

それは、まさしく女神の導き。

「うちのガレージなら、今は車もないし、誰の迷惑にもならないよ」
「いい……のか?」
「あたしも、自分が初めて乗ったバイクが残ってたら、嬉しい」

今度は、むぎからの軽いキス。
それは審判をくだす、槌の音にも似ている。

「サンキュ。すっげえ嬉しい」
「でもさ、麻生くんて、この後もなんだかんだ理由を付けて、取って置きそうだよね」

それはちょっと困るかなと、呟く唇を長めに塞ぐ。

「そうなったら、御堂に敷地借りて、博物館でも開くか」
「あは。それ、いいかも」

くすくすと響く笑い声の中に、次第に甘さが含まれる。


翌日、俺は大事なこどもを迎えに行くように、世界に一つしかない宝物を、迎えに行った。





back